レッスンの帰り道ふとおもったのだけど。
例えはアイアンガーのレッスンを受けて、あまり長くアイアンガーの練習をするでもなく、そのシークエンスやインストラクションをそのまま自分のヨガの指導をする時に採用したとしても本来の内容のどれくらいが正しく伝わるんだろうかとおもう。
ある講習会でであった人がアイアンガーは修行だ、と言った。
修行と言われたらそうかもしれない。他のヨガとはちょっと違う部分はある。宗教色が強いとかそう言うことではなくて。
アイアンガーの指導員になるまでは長い時間と高いモチベーションを維持する精神力が必要なのだ。研鑽する意欲と相手に伝えようとする熱意がそこから生まれるとも思う。
アイアンガーの練習をかさね、自らが体感しそれを自分の一部にできるまでに本当に長い時間がかかる。身体の一部にできた時に始めて適切なアジャストやインストラクションで相手に伝えることができる。
文字にしてみればほぼ同じインストラクションなのかもしれないが、身体で理解したインストラクションとそうでないインストラクションの間には天と地程の差がある。てにおはを間違えれば文書の意味が違ってしまうように。
うっかりすれば、逆効果なシークエンスになってしまうかもしれない。
実際、かつて私がヨガを始めた頃のインストラクターはワークショップ一回行った程度の付け焼刃で陰ヨガをレッスンに取り入れ、生徒に怪我をさせてもめたことがある。
アイアンガーの身体の使い方は細かい。
細かい部分にまで意識を向けて練習する必要がある。
そのために必要なインストラクションとアジャストメントは長い時間かけて蓄積された経験と知識と体感からしか発することができないのだ。
日本の町工場で砲丸投げの世界的に有名な工場がある。
そこの職人さんに作り方を教えてくれと世界中からやってくるという。そして、その職人さんは惜しげもなくその作り方を教えるのだそうだ。
誰かがその職人さんにそんな事して大丈夫なんですか?と聞いた。その職人さんは答えた。
作り方は誰にでもすぐに真似できる。
でもその作り方以上の経験があるからこの砲丸投げの玉が作れる。
その経験の部分が無ければこれと同じものは作れないんですよ、と。
アイアンガーヨガの指導も職人技と同じなのだ。
ほかのヨガの指導もそうかもしれない。私はほかのヨガの指導をそれほど多く受けた訳ではないので、そのあたりはよくわからないけれども。
2年ほどまえ、あるヨガのワークショップに参加したことがある。
長い間インドでアイアンガーヨガの勉強をして帰ってこられた人のワークショップだ。
その指導は、日本では出会わなかった指導の方法で、それは本当に新鮮だった。
感動すら覚えた。
そのワークショップに参加したしばらくのち、通常のヨガのレッスンに参加した。
どうやらその方もそのワークショップに参加していらっしゃったようで、そのワークショップでの指導の方法の一部を取り入れていたのだけれども、なんというか、消化不良気味に感じるような指導の方法でなんだかすこし違和感を覚えたのを憶えている。そのインストラクターの方のレッスン内容がよくないとかそういうことでは全くなくて。
まさに、指導というのは、相手に伝えるということは、自分の中で十分消化できて初めて相手にきちんと伝わるものなのだと実感させられた出来事だった。
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